夕方、Language Exchange Programに参加すべくリトルトーキョーのJACCC(日米文化会館)へ。
これは英語を身につけたい日本人と日本語を学びたいアメリカ人がお互いの知識を交換する目的で開かれている無料のプログラム。
月曜から金曜の毎日午後6時から9時まで日米文化会館のB4ルームで行われている。
部屋に入ると20人くらいがざっくばらんな雰囲気で言葉を交わしている。
「初めて来たんですけど…」とオドオド声をかけた僕を暖かく迎えてくれたのはホストの日系3世、リチャード塩見さん。
裁判所で日英通訳の仕事をしているという彼によると今日は比較的アメリカ人が少ないとのこと。
それでも6~7人はアメリカ人だろうか。
しばらく塩見さんと話した後、コンピュータプログラマーをしているという男性のグループに加わる。
彼の日本語学習歴は8年。
易しい漢字なら読み書きできるという彼が日本語の教科書を取り出して僕に質問してきた。
「よろしくご指導お願いします」
「よろしくご指導のほどお願いします」
この2つの文はどう違うのか、「のほど」はどんな意味なのかというのだ。
うわぁ、困った。
全然説明できない!
とりあえず和英辞典を引くと「ほど」には[およそ][程度][限度][比較]という4つの意味があると書いてあるが、どれもピタッとハマらないような気がするのだ。
「ごめんなさい。うまく説明できません。今度までに調べておきます」と答えるしかなかった。
参加者全員がボランティアであるLanguage Exchangeなのだからgive and takeは当たり前。
しかし、「日本語を使う能力」と「日本語を正しく説明する能力」は別物なのだということをいきなり思い知らされたのであった。
それは置いといて、英語を話す機会という意味ではほぼ満足。
日本人、アメリカ人とも実に様々なバックグラウンドの人が集まっているようで、利用価値は高いと感じた。
何と言っても無料だというのがありがたい。
今週の木曜日は各自が食べ物を持ち寄ってのパーティー形式でもっと大人数が集まるということなのでまた顔を出してみようと思う。
実は、帰り際にちょっとしたトラブルがあった。
僕がこのホームページ用に撮ったデジカメ写真に1人のアメリカ人が「オレは写真を撮られたくない! 消去しろ!」とクレームをつけてきたのだ。
これまでも常に頭の片隅で考えていたし、今後もインターネットを含むメディアに関わっていく以上避けては通れない問題だから、これを機に考えを整理してみようと思う。
今回の事実関係で言うと、
1. 僕は事前に主催者である塩見氏に写真撮影の許可を得た。
2. 写真を撮る時にジェスチャーで「これから写真をとるよ~」とその場にいる人たちに伝えた。
3. 写真自体は教室雑景というもので写っている人物を特定することはほぼ不可能である。
実はこの3つは日本のあるテレビ局が街頭撮影のルールとして自主的に決めた原則をふまえたもので、僕はこれらを理由に彼の申し出を拒否することもできたかもしれない。
が、よく考えた末、僕はこの写真を載せないことに決めた。
理由の第一はインターネットにおける肖像権やプライバシーの統一ルールが決まっていないこと。
簡単に国境を越えるインターネットにおいては日本のルール(あるいは一テレビ局の自主規制に過ぎないローカルルール)を安易に絶対視するべきではないと思うのだ。
もちろん国境を越えた統一ルールがそんな簡単にできないであろうということは承知の上である。
第二に被写体である彼はこの写真がインターネットで公開されるであろうことを想定できなかったであろうということ。
テレビの街頭撮影ならカメラや機材を見ただけでその映像が公開されるということをある程度想像できる。
が、僕が持っていたデジカメからその写真がインターネットに載ることをはたしてどのくらいの人が想像できるだろう。
この点、テレビとインターネットは大きく異なると思う。
インターネットでは誰もが情報発信者になり得るのだ。
第三にメリットとリスクのバランス。
もし彼が違法滞在者でこの写真を見た当局に強制送還されてしまったら…。
もし彼が仕事をさぼっていてこの写真を見た雇用主から解雇されてしまったら…。
もし彼の隣に写っていたのが不倫相手でこの写真をきっかけに離婚することになってしまったら…。
まさかそんなことはないと笑い飛ばすのは簡単だが、彼のクレームはそこに何らかのリスクがあることの表明である。
その明らかなリスクを押してまで写真を公表する意味があるのだろうか。
あるかもしれないし、ないかもしれない。
もしこの写真がクリントンとモニカ・ルインスキーの決定的瞬間だったらどうだろう。
社会的意義が大きいからと僕は写真を公表すべきだろうか?
正直言って分からない。
こう考えてくると僕が今までに公表した写真や文章によって迷惑を受けた人がいないとは限らない。
ただその人は僕にクレームを表明するチャンスがなかっただけかもしれないのだ。
表現の自由は時として表現される側の不自由をも意味する。
それでも僕は何かを伝えたいと思う。
何を書き何を書かざるべきかは僕の良心を基準にするという他はなく、全ての責任は僕に帰する。
当たり前のことではあるが、そうとしか言いようがないのだ。
はぁ。しんどいなぁ(苦笑)。
アパートに帰って国語辞典で「ほど」を引いてみた。
ほど 【程】((名・副助))
<2>《敬語的に、直接の表現を避けて》その状態であること。
「御自愛のほどをお祈り申します」「何とぞ御容赦のほどを」
おおっ、これだ!
でも、これを外国人に分かるように説明するのは大変だぞ(笑)。