退出まで半月になったことだし、そろそろ通知しておいた方がいいだろうとローカル電話会社に電話してみた。
ところが、Verizonは「あなたの回線はDSLだから」という訳の分からない理由で「引越当日に電話してくれ」と言う。
さらにケーブルテレビのAdelphiaにも電話してみたが、何度かけても「しばらくたってからおかけ直し下さい」。
う〜む、そんなんでいいのか!?
部屋の掃除をしながら引き続き身辺整理。
もう使わないであろうと思われるキッチン用品の写真を撮り帰国セールに出す。
食器など細々したものは値段をつけるほどではないのだけれど捨てるのはもったいないんだよなぁ。
ここ数日で4冊の本を読了。
「人間がサルやコンピューターと違うホントの理由」(ジェームス・トレフィル著/家泰弘訳/日本経済新聞社)
「エコマネー」(加藤敏春著/日本経済評論社)
「アカウント・プランニングが広告を変える」(ジョン・スティール著/丹治清子ほか訳/ダイヤモンド社)
「アートとコンピュータ」(藤幡正樹著/慶應義塾大学出版会)
なかでも刺激を受けたのは「アートとコンピュータ」。
東京芸術大学教授でありコンピュータを表現の道具かつメディアとして試行錯誤してきた著者が新しい美術の可能性を論じている。
芸術家はなにがしかの「もの」を残す以外に、その内部にあるメモリーを外部に出すことができないのだ。「もの」を残すことによって「もの」以外のことを伝えようとしてきたのだ。
表現とは表現する人を映す「鏡」を作る作業なのだ。描いている対象が問題なのではなく、どのように描くことによって私の在り方が表現できるかということに腐心する。
新しいメディアの形態にとって今問題になっているのは、受け取る側の問題なのであって、自分で考える能力の問題である。映像情報の特性によって、われわれは考えることをやめてしまって久しいのだ。
あらゆる複製物が時間と空間を越えて流通したことで、「様式」はその神性を失う。その「形」の生まれてきた背景が見えなくなってしまうのだ。それでも商品を成り立たせるためには何かその大量生産された物に対して様式に替わる「幻想」を付加しなければならないのだ。
技術と表現は、感覚とイマジネーションにコントロールされながら、時代と密接な関係を持っている。技術が新しくなれば感覚も変わってくる。表現は感覚にしたがって変化を求められる。
「芸術」なんていう高尚なものにはとんと縁のない僕だけれど、「エンタテイメント」との間にある微妙かつ本質的な差を意識して読むことでインスパイアされることが多々あった。
「芸術」そのものはともかく、「芸術論」についてはちょっと勉強してみたいなと思ったのだった。
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