この週末、日本から立て続けに2つ仕事の依頼が入ってきた。
1つは「プロモーションビデオ用にアメリカのスポーツバーの映像を30秒ほど撮影して欲しい」というもの。
さっそく篠原さんとKojunを巻き込んで、近所のスポーツバーに出向いたものの、時間帯が悪かったせいか目的の映像が撮れず。
スポーツイベントのスケジュールを確認して来週末に再度チャレンジすることにした。
もう1つは12月から本放送がスタートするBS放送のテレビ番組企画書。
先日提出した企画書が予想通り(!)好評で、それとは別にもう1本書いて欲しいというものだ。
立ち上がり当初、視聴者の絶対数が少ないBSでは、これまでの地上波放送のように広告収入を見込んだ大予算の番組を作ることは難しい。
発注主のYプロデューサーはこの状況をしっかり把握した上で、テレビ番組から発生しうるあらゆる副次的コンテンツを連動させた仕組みを作ろうとしている。
「広く浅く不特定多数の視聴者を狙うんじゃなくて、狭くても深くて熱い視聴者の絶対的支持を獲得できれば、それがメディアとしての突破口になるはずだ」というYさんのビジョンはまったくその通りだと思う。
「できればゴールデンウィーク前に欲しいけど、最悪は連休明けでもいいよ」
う〜む、大きな宿題を与えられてしまった。
さっそく企画書書きに取りかかる…わけではなく(笑)、読書に逃避する。
で、「インターネット II 〜次世代への扉」(村井純・著/岩波新書)読了。
おなじみ、慶応大学教授にして“ミスター・インターネット”がインターネットの指針を示した著書だ。
95年に出された前著では「インターネットとはなんなのか」という技術的・物理的な面に重点が置かれていたように記憶しているが、今回はインターネットの全世界的な普及を受けて「すべての人のためにどんな役に立つのか」というコンテンツ的・哲学的な部分が多くなっている。
たとえば、著者が立ち上げたSOI(スクール・オブ・インターネット)というプロジェクトでは課題のレポート提出をインターネットでするようにしたところ、興味深い変化が起きたという。
学生側からにSOIのホームページにアクセスすると、誰がすでに提出したかわかるし、それがどんどん増えてくるのを見て、いままで出さなかった人が出すようになる。また、そこに、提出されたレポートの「リンク」がずらっと並んでいるので、それにしたがえば、ほかの学生のレポートを読むことができる。自分のレポートの参考になるわけです。
こうして、紙のレポートでしばしばあった丸写しがあっという間になくなりました。誰が誰のレポートを丸写ししたか、他人から丸見えになるので、そんなことはしなくなるのです。
それから、他人のレポートを見てから書く、ということになると、最初に書いた人はいわば損をしかねません。あとから書く人はそれをふまえてもっといいものを書くことができるからです。ところが、最初に書いた人も、あとから書かれた他人のいいレポートを参考にしながら、さらに自分のホームページに置いてあるレポートを書き改めることができます。こうして、締切りがくるまでお互いにクロス・レビューするものですから、どんどん中身がよくなっていって、もう、ほとんど採点しなくてもいいくらいです。
これは面白い。
情報の公開とコミュニケーションの双方向性が確保されることによって情報の切磋琢磨が起こったというのだ。
コミュニケーションの方法や手段が変わることによってその質も変化するという好例だろう。
たとえば、管理者不在のインターネットでは犯罪につながるような悪質な情報が流通することがあるが、同時に「○○の情報はウソだ。信用すべきではない」といった情報も同じスピードで広がり、ユーザーの正確な判断のための材料になる。
巨大メディア企業でなくてもこうした反証を同じ条件で提示できるのがインターネットのいいところだ。
ちょっと大げさにいえば“情報民主主義”。
こうなると、やはり大切なのは1人ひとりの「判断能力」なんだよなぁ。
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