快晴が続くL.A.。
にもかかわらず、部屋でのんびり読書三昧というぜいたくな日々を過ごしている。
今回は宗教関連の本を3冊。
「オウム解体」(宮崎学・著/雷韻出版)
“キツネ目の男”こと宮崎学氏があの上祐史浩氏に迫るインタビューをまとめたもの。
暴対法、団体規制法に反対する立場からある種オウムを挑発する宮崎氏とあくまで冷静に答える上祐氏。
「宗教」についての認識のズレが大切なところで議論をかみ合わなくしている気がする。
「日本人のための宗教原論」(小室直樹・著/徳間書店)
アメリカで生活していると日常のちょっとしたところで宗教(ま、ほとんどがキリスト教だけれど)的なことを見聞きして軽い違和感を感じることがある。
別にそれが好きだとかキライだというのではなく、単純にもうちょっと知りたいなと思って買った本。
著者は「宗教とは何か」という疑問に答えながら、キリスト教、仏教、イスラム教、儒教のそれぞれの要諦を比較しながら解説している。
一番印象に残ったのは「資本主義もデモクラシーも近代法も深くキリスト教に根ざしている」という指摘だ。
パウロは、人間の外面的行動(行為)と内面的行動(内心)とを峻別した。ユダヤ教、イスラム教における法律と戒律の一致とは全く異なる、この内外の峻別があればこそ、キリスト教はローマ帝国下で生き延びることができることになった。
人間の内外の峻別は、後世、近代デモクラシー発祥の前提となった。近代デモクラシーは、いくつかの自由が確保されることによって成立する。これらの諸自由のなかでも、一番大切なのが良心の自由(信仰の自由)である。
キリスト教が資本主義を生み出す原動力になった理由は、まさにこの二分法にある。キリスト教では、この二分法によって、信仰と人間の行動を全く別個にしているため、信仰を変えることなく、外面的行動を変えることができた。資本主義を成立させるための、法律、規範、人々の行動様式は、すべてこの外面的行動だけを規制している。
イスラム諸国は、ヨーロッパ先進国を手本にして、いくたびも近代化を試みた。しかし、そのたびに失敗を繰り返した。失敗の理由は、近代化の改革において徹底を欠くからである。ヨーロッパの近代資本主義、憲法をはじめ近代法、代議政体はじめ近代政治制度などは、すべてキリスト教文明が生み出したものである。ゆえに、近代化を徹底させるためには、イスラムの諸制度をキリスト教化しなければならない。
著者は「この諸制度のキリスト教化という大手術は、無宗教国家である日本のような国ならばできる」といいつつも、その理解は限定的であり、従って資本主義やデモクラシーの実現も形式的なものではないかと指摘している。
う〜ん、難しい。
難しいけれど、言われてみればそんなそんな気がしなくもない。
「Baseball」と「野球」は違うのだ、と言われればそうかもしれないし、逆に色つきのユニフォームを着る「Judo」は「柔道」とは違うのかもしれない、というくらいのレベルだけれど。
最後に「インターネット時代の宗教」(国際宗教研究所・編/井上順孝・責任編集/新書館)。
メインテーマは「サイバー空間の中で聖なるものは可能か?」。
各宗教団体の中でも比較的インターネットに積極的な人たちの取り組みを紹介しているのだが、まだその試みは恐る恐るといった感じ。
ココロの問題を扱う宗教が新しいコミュニケーションの手段にどう対応するのか、あるいはしないのかという点はとても興味深い。
きっとこの問題についてもアメリカの宗教団体が先に答を出すんだろうなぁ。
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