H.I.S.に行って一時帰国のチケットを発券。
ついでに隣のVideo Junで1週間遅れの「朝まで生テレビ」のビデオを借りてきた。
「想像と創造の未来〜マルチメディア社会と変容する文化」(NTTインターコミュニケーションセンター編/NTT出版)を読み始める。
アートや学術の第一線で活躍している人々へのインタビューをまとめたものなのだが、これがかなり面白い。
たとえば、ベルリン・フンボルト大学で美学とメディア史を教えるフリードリッヒ・キットラー教授は「デジタルなゲームテクノロジーが、若い世代の人間性に影響を及ぼしているのではないか」という主張に対する考えを聞かれて、こんな風に答えている。
映画の黎明期、初めてクロースアップを観た客は、頭部が胴体から切り離されたものと信じ込んだと言われていますが、その後、映画の文化適応が進行し、もはや誰も映画と現実と混同したりはしないでしょう。ですから多分将来には任天堂世代も、歴史的なショックの時代を過ぎてしまえば、夢中になっている状態から目覚めるでしょうね。
なるほど。
僕らはいつの間にかクロースアップという映画の“文法”に適応して、その表現が意味するものを作り手と共有する能力を身につけたというわけだ。
「ゲームのキャラクターを簡単にリセットできるから子供たちが人命を軽く見るんだ」なんて主張しているのは旧世代の人たちで、子供たちはとっくにゲームの“文法”に適応しているのかもしれないなぁ。
さらに興味深かったのはトロント大学文化技術研究所マクルーハン・プログラムのディレクター、デリック・ドゥ・ケルコフ氏へのインタビュー。
氏は異なるメディアの持つ特徴についてこう答えている。
ラジオは大変危険です----なにしろシグナルの増幅器なのですから。シグナルはひとつの声であり、ひとつのテーマを扱い、ひとりの人間から発せられるにすぎませんが、それが同時にすべての人に届くのです。これこそがヒトラーであり、ムッソリーニであり、ホメイニ----すなわち過激主義なのです。
テレビは違います。テレビは経済を生みだすメディアで、軍隊は生みだしません。テレビはニーズの増幅器、欲望の増幅器であり、声を増幅するわけではない。(中略)テレビは知覚を消費しながら、同時に知覚を統一化しますが、それ以外は多かれ少なかれ放置する。これはアイデンティティーの思考にとって脅威です。望みどおりのアイデンティティーはテレビからは得られないというのは真実です。
コンピュータはテレビとは異なり、自己の増幅器です。テレビは公衆の増幅器ですが、コンピュータは私ないしは自己を増幅するのです。心の増幅器、プロセスの増幅器、自己の増幅器----つまり自己の拡張。
これは面白い!
技術の進化によって生まれた3つのメディアが結果として異なる影響を及ぼすという分析は、まさにマクルーハンのメディア論だ。
特に「テレビは公衆の増幅器だがコンピュータは自己の増幅器である」というくだりは、なんとなくだけれどすごくよく分かるような気がする。
そんな“自己の増幅器”が連結したのがインターネットだ。
統一化された“公衆”でなく、個々別々の“自己”がつながることによって彩り豊かな世界が出現する。
それぞれの“自己”は相互作用し、ときには反目し、またあるときには協調する。
もしかしたら、歴史上あり得なかったシナジー効果を生むかもしれない。
僕がインターネットを好きなのは、この可能性に期待しているからかもしれない。
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