留学を終えた“人生最後の春休み”にはアメリカから東回りにグルッと世界一周して日本に帰りたいなぁ、と以前から漠然と考えていた。
いわば、“平成の「何でも見てやろう」”。
「アメリカ大陸横断ドライブ」、「中南米縦断バスの旅」に続いてノートパソコン片手にリアルタイムの日記を書きながら旅ができたらいいな、と。
どうせ日本に帰ったらこんな長期の旅行ができるチャンスはまずないたろうから。
あくまで漠然とした希望であって、計画らしい計画を立てているわけではない。
なんとなく行ってみたいのはネス湖と北欧とトルコとエジプト。
最後はアジアを巡って、香港でEricにメシをおごってもらおう、というくらいのもんだ。
で、インターネットで少し調べてみたところ、1年間オープンで最高15都市に降りられる世界一周チケットという航空券があるらしいことを発見。
お値段は約30万円だ。
決して安くはないけれど、個別に旅行するよりはずっとリーズナブル。
身の回りの物を全部売っぱらって貯金の残りをつぎ込めば貧乏旅行くらいはできそうな気がしてきた。
ちょっとガイドブックでも買って本気で考えてみようかな、と思う。
「情報の空間学〜メディアの受容と変容」(黒崎政男・監修/NTTオープンラボ・企画/NTT出版)読了。
本書は、いま進行しつつあるディジタル情報革命と人間存在との関わりについて、コンピュータ・サイエンス、デザイン史、科学史、社会学、精神医学、哲学の各分野と、実際の情報革命に携わる現場の技術者たちとの対話・対決を通して、「メディアの現在」を浮かび上がらせようとしたものである。
いわゆるIT革命をビジネスやテクノロジーの観点から解説する言説は世にあふれているけれど、社会論や文化論、メディア論として語る良質の考察はまだまだ少ない。
その点でこの本の試みは僕にとっても興味深く、インスパイアされることも多かった。
(活版印刷本というメディアを生んだ)グーテンベルク・テクノロジーは、その黎明期には、従来の写本文化の延命に力を貸したのであり、印刷文化に見合うコンテンツは、百年単位のスパンで初めて成立してきた。(中略)実際、初期のグーテンベルク・テクノロジーによってつくりだされた本は、ほとんど写本と同じような活字を使い、写本と同じような構造をしていた。もっと活字を小さくしてもいい、ページをつけてもいい、目次があってもいい、といった、今日では当然と思われている書物文化に特有の構造をとるのには五〇〜一〇〇年、あるいはもう少し長い時間がかかったのである。
現在インターネットを使って発信されるコンテンツは、“オンライン・マガジン”とか“インターネット放送”と呼ばれるように雑誌、ラジオ、テレビといった既存メディアの構造を模したものが多い。
こうしたコンテンツは活版印刷黎明期における写本と同じなのだろう。
インターネットにふさわしく、インターネットに特有のコンテンツが生まれるまでにはまだまだ試行錯誤の期間が必要なのかもしれない。
ま、ドッグイヤーなら50年もかからないだろうけど。
電脳空間と現実空間は、単に前者を現実空間の一部と認めるというにとどまらず、さらに内的な絡み方をしているように思われるのだ。つまり、一言で表現すれば、これはリアルだとかバーチュアルだとかいう区別、あるいは電脳空間と現実空間という区別そのものを崩壊させながら、空間性全体の再配置が進行中である、というのが今日の状況の本質ではないだろうか。
要するに、僕らが「現実」だと感じているものの範囲は時代や技術によって変化するものであって、絶対的なものではない、ということか。
たとえばテレビニュースの現場中継を見て事件を「現実」として身体化する人はかなり多いだろう。
同じことがインターネットで起こったってまったく不思議じゃない。
「テレビゲームやインターネットをやり過ぎると現実と虚構の区別がつかなくなるからよくない」的なバーチュアルとリアルの二元対立構造は意味を成さなくなってくるのではないだろうか。
このほか、携帯電話などの移動メディアによってコミュニケーションの質や人間の受容性にどんな変化があるのかについての考察など、考えさせられるテーマが盛りだくさん。
久しぶりに中身の濃い読書をした気分になった。
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