L.A.は今日もまた雨。
ああ、スカ〜ッと晴れた青空が懐かしい(笑)。
というわけで、部屋の掃除をしがてら荷物を整理し、帰国セール用の写真撮影なんぞしてみる。
で、「メディアの遺伝子」(武邑光裕・編/昭和堂)読了。
編者が教鞭をとる京都造形芸術大学「メディア論」のテキストにもなっている著作で、デジタルメディアと人間の感覚について深い考察が行われている。
かつてテレビ創世記から60〜70年代までは、(料理のレシピ番組は別として)テレビでおいしいレストランを紹介したところで、その味や匂いが伝わるわけではないので、そのような番組は成立しないという考え方があったのである。ところが、カラーテレビの登場や画質の進化などもあいまって、最近では、おいしいラーメン屋さんがブラウン管に映し出されるだけで生ツバがわいてきたりする。
いわゆるグルメ番組を当たり前のものと感じていた僕には意外な指摘だ。
つまり、僕らは視覚と聴覚による情報を受け取ることによって味覚と嗅覚を全体的に補完してしまう機能をいつの間にか身につけてしまっているということだろう。
人間の内部的な深い感覚や喜怒哀楽といった領域をいかにデザインするかという点において、エンタテイメント産業こそ、現在もっとも特化した内部産業といえるのだ。
テレビが視聴者の味覚や嗅覚を引き出したように、新しいデジタルメディアも僕らの新しい感覚を引き出す役割をはたすに違いない。
そして、何人かの執筆者は「触覚」の可能性について論じている。
たとえばゲームプロデューサーの水口哲也氏は「面白い」「感動的だ」という感覚について分析しながらこんな意見を提示している。
受動的な状態で情報をストックすることで得られる映画のような感動と、能動的にボタンを押すことでつねにそのたまった感情をリリースするゲームの生理的快楽の混合は、三次元CG技術の進化によって、さらに押し進められていくはずである。
たとえば格闘ゲームでコントローラーからコマンドを入力しAボタンで技が決まったときに得られるような「親指の快感」については僕もゲーム業界の人と何度も話し合ったことがある。
同じことはインターネットにも言えるはずで、僕はネットサーフィンしながら無意識のうちにクリックポイントを常に探しているような気がするのだ。
もちろん、技術が進歩していけばこの「快感」は指先以外にも拡張していくだろう。
だが、メディアの双方向性がもたらす新しい感覚の基本はこの「クリック感」にあると思うのだ。
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