「鈴木クンが日記にときどき書いてる本の紹介さぁ、けっこう好きで参考にしてるんだけど、最近あんまり書いてないじゃん。どうしたのよ?」
と、ある仕事関係の人に指摘された。
う〜む。
本を読んでないわけじゃないのだけれど、書評を書くのってちょっと集中力が必要だから、仕事終わりのモーローとした頭じゃ厳しくて、しばらくサボっていたのだ(笑)。
せっかくご指摘いただいたんで、今日は頑張って紹介しちゃいましょう。
「世論(上・下)」(W.リップマン・著/掛川トミ子・訳/岩波文庫)。
第一次世界大戦後の混乱期にアメリカのジャーナリストが書いた大衆心理と世論形成研究の名著という触れ込みに惹かれて購入。
テレビやラジオの番組はもちろん、インターネットのウェブサイトやその他の商品だって、お客さんの話題になって「支持率」が上がるのにはなにか「法則」があって、その秘密が理解できちゃうんじゃないかという下心からだ。
全体的に難解だったけれど、かなり興味深かった。
われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。
僕らが何かを見たときにイメージするものは、前もって持っている固定観念(ステレオタイプ)に左右され、その関心は固定観念を支持する事実に向かい、矛盾する事実からは離れていくということらしい。
たとえば、宗男ちゃんの顔からイメージするものは「悪役顔」とか「悪徳政治家」という固定観念と結びついて、悪事の方向に関心が向き、彼が他にやってきた(かもしれない)いいことに関心は向かないということだろうか。
全体的な主題は政治に関することなのだが、エンタテイメント屋として見逃せない指摘もある。
もし届いたニュースの中に(われわれがどのような感じをもつべきかについての微妙な)暗示がないと、われわれは論説や信用すべき助言者にこれを求める。
自分たちがそのニュースに関わりがあると感じているときにただ空想していることは、不愉快である。自分の立場がわかるまで、つまり、諸事実が組織的に説明されて自分がそれに関して「イエス」なのか「ノー」なのかを感じることができるようになるまでは、不快感は拭われない。
なるほどねぇ。
大きなニュースが起きたときに「ニュースステーション」の視聴率が上がるのは久米さんの暗示的なコメントが求められているからなのかも。
でも、一方で「ニュースキャスターに余計なコメントはいらない!」なんていう意見もあるよなぁ。
公共の事柄が演説、見出し、演劇、映画、風刺漫画、小説、彫刻、絵画などで巷間に広められるとき、人の関心をひくかたちに変えようとすれば、第一に原形を抽象すること、次には、抽象されたものに生命を吹き込むことが必要である。
われわれは自分の目に見えないものに大きな興味を抱いたり、大いに感動することはない。
ドラマに関するわれわれ大衆の趣味は、もっともらしい存在感を感じさせるだけの現実味がある状況設定で始まり、ありえないと思うほどではないが望ましいほどにはロマンチックな状況のうちに終わる、というところにある。
発端から結末に至る中間の決め事は自由であるが、現実味のある出だしと幸福な結末というのは動かしがたい標識である。
この辺は実にアメリカっぽいかも。
世界中にはいわゆる「悲劇」だってたくさんあるのに、ハリウッド映画は圧倒的に予定調和のハッピーエンディングが多いもんな。
でも、それが世界中でヒットしているということは、最大多数の大衆心理はそこにあるということなのかもしれない。
結末が分かっているのに「水戸黄門」を見ちゃうのはそういうことなんだろうな。
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