先日発売されたFMラジオ搭載の携帯電話にラジオ業界はちょっと盛り上がっている。
なにしろ、今やほとんどの人が肌身離さず持っている携帯電話にラジオが付いていれば聴取者数が飛躍的に増えることが予想されるからだ。
今はただ1機種だけだが、もしこれがカメラ付きと同じくらい普及したら確かにラジオの世界は大きく変わるだろう。
そんなわけで、全国53のFMラジオ局が共同でこんなキャンペーンを実施しているのだ。
局内にもメーカーがブースを出していたので、僕もさっそく実機を試してみた。
これが思ったよりも音質がいい。
難しいことはよく分からないが説明によれば、なんでも携帯電話の端末には電波をホニャララするシールドが付いているため、むしろ普通のトランジスタラジオより音が良くなるらしい。
なるほどねぇ。
残念ながら僕の携帯とはキャリアが違うので簡単に乗り換えられないけれど、ラジオ付き携帯という選択肢も悪くない。
もしこれが爆発的に普及したら、リスナーとの双方向コミュニケーションをより強調した新しいタイプの番組が生まれるかもしれないな、なんてことを考えたのだった。
「伊丹万作『演技指導論草案』精読」(佐藤 忠男・著/岩波現代文庫)読了。
映画評論家で日本映画学校校長でもある著者が、映画監督・伊丹万作の「演技指導論草案」を考察しながら語る演出論。
テレビやラジオで僕ら放送作家の仕事は「構成」、ディレクターの仕事は「演出」とされているが、その境目は曖昧だったりする。
番組によってはディレクターや他のスタッフと協力しつつ「演出」らしきことをしたりすることもあったりするわけだ。
ちっとも体系的に勉強したことのない「演出」(「構成」だって勉強したわけじゃないけど(笑))の断片くらいは理解していてもよかろうと思って読んだ本。
これがなかなか面白かった。
○演技指導の実践の大部分を占めるものは、広い意味における「説明」である。しかし一般に百を理解している人が百を説明しきれる場合は希有に属する。
○演技指導の本質の半分は「批評」である。
○どんなに個性の強烈な演出者と、どんなに従順な俳優とを結びつけても、俳優が生きているかぎり、彼が文字どおり演出家の傀儡になりきることはあり得ない。
○不完全な演技を示すことの結果は、往々にして何も示さないことよりもっと悪い場合がある。
○俳優をだれさすな。カメラマンをだれさしても、照明部をだれさしても、俳優はだれさすな。
○俳優がすぐれた演技を示した場合には何らかの形で必ず賞賛するべきである。
○演技指導における俳優と演出家の関係は、ちょうど一つの駕籠(かご)をかつぐ先棒と後棒の関係に似ている。先棒の姿は後棒に見えるが、先棒自身には見えない。
箇条書きで示された伊丹万作による格言の数々は奥が深い。
それを具体的な映画のエピソードで説明する著者の文章も肩の凝らない感じで好感が持てる。
で、読み進めていくうちに、これはなにも映画監督に限った話ではないんじゃないかということに思い当たった。
たとえば部下を動かす上司でも、生徒に教える学校の先生でも、子育てをする親でも、自分の意思を他人を通じて形にする必要がある人に共通する方法論が「演出」というワードで示されているのかもしれない。
いくつになってもちゃらんぽらんで無責任であるが故に「演出家」になどなろうともなれるとも思わない僕だけれど、その近くに必ずいるであろう「演出家」のツボをかじっておくのはきっと意味があることだと思う。
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