週末は本を読んだりビデオを見たりして久しぶりにのんびり自宅で過ごす。
ずっと気になっていたイタリア映画「ライフイズビューティフル」を見た。
キャラクター設定といい、うまく伏線の張られたシナリオといい、映画としてはすごくよくできていると思う。
秀作といってもいい。
だけど、今ひとつ共感できないのはなぜなんだろう。
テーマの選び方も、最後に星条旗を掲げた戦車が出てくるところも、いかにもアカデミー賞を狙って作りましたという監督の思惑が透けて見えてしまうのだ。
スピルバーグ監督が「シンドラーのリスト」を作ったように。
これ、ユダヤ系以外のイタリア人はどんな気持ちで見るんだろう?
「ゲームクリエイター作法」(木村央志・著/NTT出版)読了。
著者はコピーライター出身で「クローンズ・ゲート」の脚本・監督や「プラネットライカ」の企画・脚本を務めた“文系”ゲームクリエイター。
映画や小説との共通点や相違点を挙げながらゲームというエンタテイメントの特性について考察している。
ひとくちに執筆者といっても、文学は「オーサー」の手になるもの、記事や原稿は「ライター」がまとめるもの。「ストーリーテラー」は書くには書くが、資質的には語り部だ。語り部=語り手として、なるべく聞き手の興味を引くようにはからう。(中略)もっと乱暴な区別をすれば、文学は芸術で、ストーリーテリングはデザインである。
そういえば、放送作家という仕事も「ストーリーテラー」という要素を多分に含んでいる。
どんな企画を立て、どんな構成にし、どんな言葉を使えば視聴者が楽しんでくれるのか。
そこに知恵を絞るのが職人たる僕の仕事だった。
ゲームデザインはフィジカルなインターフェイスにばかり目を向けて、そこで自己完結してしまっている。よく「ゲーム性」という言葉を耳にするが、これが実にクセ者なのだ。「いきなりゾンビが現れて、ドキッとする」ようなゲームの場合を考えると、ゲーム性の与え方として、「いきなりゾンビが現れて」に終始してしまい、その後に続く「ドキッとする」にまで至っていないケースが多い。プレイヤーに何をさせるかだけが関心事で、どう感じるか、どう思うかについての検討がなされていない。
著者はエンタテイメントの作り方として「与える」よりも「引き出す、奪う」手法を強調している。
たとえば、ゾンビといった恐怖の対象を一方的に見せるのではなく、設定とシチュエーションでプレイヤーを追い込みプレイヤー自身の心の中からイマジネーションによる恐怖を引き出す方が効果的だというのだ。
いい映画の「余韻に浸」ったり、いい小説の「行間を読」んだりするのはよくある経験だが、プレイヤーが能動的にコンテンツに関わるゲームなら、もっともっとプレイヤーの心からなにかを「引き出す」ことができるはずだ。
すべてをクリアした後、「してやられた!」と思いつつも自分の心の動きを押さえきれない、そんなゲームをプレイしてみたいし、作ってみたいと思うのだ。
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